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心理探偵 横田加絵教授の事件簿
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☆プロローグ☆
「美しすぎる昼下がり、心の隙間は胃袋で埋める」 近頃はやりのグルメ旅行に出かけたタレントの冒頭の文章がこんな具合に始まるパンフレットを読んで、僕は「心の隙間を胃袋が埋めるなんて、動物と同じだなあ。人間もずいぶん下等な動物になり下がった。いや、動物以前だ、動物には心がないんだから」と瞬間的に思った。
胃袋をおいしいもので満たしてそれで満足だ、幸福だと思うことが問題なのではない。胃袋を満足させるのは極貧の状態で胃袋が空っぽ、それを満たしてくれたおにぎり一つ、おそば一杯が本当に自分を幸福にしてくれるものなのであって、それを感謝する心が「本当の心の隙間を埋める」ものであると僕は思っているからだ。
グルメ、グルメと騒ぎ、今度はメタボ、メタボと騒ぎ、食育を徹底させるなんて、近頃の人間は短絡的だと僕は思っていた。
だから、こんな社会風潮の中で起こった「グルメ殺人事件」なんてまさに僕にとっては現在の人間の必然的帰結なんだとしか思えない。事件はこんな具合だ。グルメに凝って毎日友達と食べ歩き、肥満の極限に達してもはや家庭のことなど顧みず、疲れ果てて帰宅した夫の食事を作れない妻に業を煮やした夫が、日ごろの憤懣も手伝って妻を殴り殺したという事件である。この夫婦には子供がいなかったんだなと僕は思った。
もし、子供がいればいくらなんでも母親は子供のためにご飯を作るのが当たり前だろ。どんなに多忙でもそのための支度にほんの少しの時間を割くというのが自然だろ。どんな動物だって、鳥だって、子供が腹をすかして待っていると思うから、危険を冒して餌を探しに出かけるんだから。
だけど、この事件には子供が2人もいたんだぜ。子供はいつも腹すかして、ご飯作ってくれない母親から金もらって、コンビニでおにぎりとか菓子パンとかを買い、飢えを満たしていたんだ。
悲惨だなあ。グルメ、グルメと騒いでうまいもの毎日食って、どうして心の隙間を埋める事が出来るんだ、憤懣やるかたない僕の心情わかるだろ?
ところで、僕は今年の4月から北陸学院大学人間総合学部幼児・児童教育学科に入学したばかりの1年生、輪島諒平だ。
どうしてこの大学で幼稚園や保育園、出来れば小学校の先生になるなんて気を起こしたかといえば、生まれは金沢、この土地から1歩も出ちゃならないという親の偏見と郷土愛に押しまくられて、金沢一の幼児・児童教育で知られる伝統ある北陸学院大学を志望した。この大学は去年できたばかりだから僕より1年先輩たちがいるが、そのほとんどが女子学生だ。もともと北陸学院は女子で成らした学校だから当然だけどさ。
このお姉さんたちが母親になってブランド品とかグルメ狂騒曲に踊り狂ったらと思うと正直、背筋が寒くなる。幼稚園・保育園・小学校の先生の役は女性であると思っている時代錯誤はとっくに終わっている。
だから僕は子供の教師になって、これからの日本を背負ってゆく立派な子供たちを教育する教師になろうと思ったんだ。
それに、この大学の理念がリアライズ・ユア・ミッション(あなたの使命を実現しよう)というんだから格好いいだろう。そんな学校なんか今どきないぜ。ミッション・スクールというのが全国に沢山あるけど、この金沢にはこの学校だけなんだ。これも驚きだな。
明治時代にアメリカから来た宣教師の先生が仏教王国といわれる北陸にキリスト教主義の教育、しかもそれまで疎まれてきた女子教育を行うためにやってきたなんて、やっぱりすごいよ。
だから僕も信念を固く持って、子供の教育者になるための使命を果たすんだ。理想を高く持って、将来に夢を託すことは自然の本性だよ。
4月も過ぎ、5月の連休が始まろうとしている時、僕は社会福祉学科福祉心理コースを志望する女子学生、桜木まりと出会った。彼女は勿体ぶった顔つきで、心理学実験室のあるライザー記念館から出てきて、僕が座っていた礼拝堂わきの長椅子にドンと腰をおろした。僕は驚いて、彼女を見ると、彼女はにやりと笑った。驚いた僕は反射的に立ち上がり、その場から退散しようとした。すると、彼女は面白そうな顔つきで僕を呼び戻したのだ。
「ねえ、ねえ、幼教の1年生やろ」
「うん」と肯くと、彼女は
「何を勉強しとるがぁん?」と僕の手にした本をのぞきこんだ。
「心理学・・」僕は何となく気まり悪そうに答えた。大学生にならないと心理学という新しい学問を勉強する機会はない。初めて手にする心理学の教科書に半分有頂天になって、いつも、僕はこの教科書を手に持って歩いていたんだ。すでに心理学の講義は始まっていた。すごく難しい科目で、「心の隙間」に興味を持っている僕にとっては別世界の勉強なんだ。子供に「心って何? それはどこにあるの」と聞かれたらどうしようかと思うほど分かりにくい学問なんだ。
「心理学にそんなに入れ込んでるなら、ねえ、この大学にすごく偉い犯罪心理学の先生がいるってこと知っとったか?」桜木まりが椅子から立ち上がって、僕のそば近くに寄ってきた。思わず一歩後づさりしながら、
「知らん」と僕は答えた。
「知りたいと思わん?」桜木まりはなおも僕に詰め寄った。
「知りたい」思わず僕は言った。
「それじゃ、ついてこんか」僕は夢遊病者みたいに桜木まりのあとに従った。
社会福祉学科の研究室にいたる階段を上り、薄暗い廊下を歩いて真ん中の研究室に横田加絵教授という名札が掛かっていた。「学外」になっているから教授は今は大学にはいないようだ。研究室の入り口付近には椅子が3つ並んでおり、研究室に入るにはかなり待たせるに違いない。(そんなにこの研究室は混んでるんかな、病院みたいやな)と僕は何となく思った。
「先生は今いないから、ここに座らんか」桜木まりが僕に椅子を指差した。僕は恐る恐る座った。
「横田先生の本がここにあるから読んどいたら」と桜木まりが1冊の新書版の本を僕に渡した。「犯罪心理プロファイラー素描―母と娘の事件簿」というタイトルの本であった。
「プロファイラーってなんや?」僕は思わず桜木まりに聞いた。
「探偵のことや」桜木まりはこともなげに言った。
「探偵って、名探偵コナンみたいなんか?」
「あほやな。そんなちっぽけなもんじゃないわ。本物の探偵や。知らんかな?」
「本物の探偵って、たとえば、シャーロック・ホームズみたいなもんかな」
「そうや。女シャーロック・ホームズや」
「ちょうすごいー」僕は思わず叫んだ。
「そんな大きな声出したらいかん。ここは研究室や。静かにしんと、先生に怒鳴られる。おっかない先生もおるからね」僕はしんとした研究室の並ぶ廊下の先を眺めた。まるで幽霊でも出てきそうだ。
「横田先生は今年この大学に来たばっかりや。それまでは、東京の科学警察研究所というところで犯罪事件のプロファイリングしとってんて。先生の履歴はものすごいんやよ。今から65年前に金沢の飛梅に生まれ、北陸学院に幼稚園から高等学校まで在籍し、金沢大学に進学して、心理学を学び、さらにプロファイラーとしても活躍しているイギリスのリバプール大学の犯罪心理学の先生で、デヴィッド・カンターという有名な先生のところで、プロファイリングを学び、そこで学位を貰って科学警察研究所の主任研究員になった。若干28歳、ちょっと天才的なところがあると思わん?」
「うーん、そうやね」 僕は桜木まりの話を十分に理解しないまま、横田先生が金沢生まれで、北陸学院育ちであることに興味を持った。金沢というところは時々とんでもない傑出した偉い人が生まれる土地だから、その一人がこの大学の先生であるということは信じられないと同時にとても嬉しくなった。
「横田先生の事件ファイルを知りたくないけぇ?」桜木まりはボーとしている僕の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「知りたい」僕は夢うつつのまま小さな声でつぶやいた。
「それじゃ、これから先生の扱った事件を教えてあげる。あんたはどんなテーマが今一番興味がある?」
「グルメ」
「グルメ? ねえ、幼教の学生やろ? 子供に興味もたんがぁ?」
「グルメと子供」僕にはさっきから考えていた「グルメで心の隙間」を埋める話と子供がグルメのためにいよいよ飢えてゆく話に興味があった。この問題はかなり現代的でもあり、地球環境汚染の観点からだって説明がつく重要な問題だと僕はとっさに思った。だから、横田先生が扱った事件簿のなかに、グルメから生じた幼児虐待の話があれば面白いなあと思った。
犯人は当然母親だけど、それってかなりありふれているから、横田先生のようなプロファイラーの登場する余地はないかもしれない。桜木まりはしばらく考えていたが、
「それとよく似た事件があるわぁ。母親が犯人だと思うやろ? それが違ってんて。だって同じ手口で殺された子供は3人もおったんやから、まさにプロファイラーの出番やよね」
桜木まりはひどく嬉々とした顔で目を輝かせながら僕に語った。どこから飛んできたのかわからない名も知らない薄紫の花びらがひらひらと一枚、桜木まりの髪の上の落ち、まるでかんざしのように煌めいた。どうしたわけか、不意に僕は立ちあがって、廊下の突き当りの窓の外を眺めた。白山の稜線が白くかすんでいた。新緑が浮き立つように広がっていた。
その時、僕は白山の稜線を一望できる崖のように突き出た草はらに、ベージュの帽子をかぶり、首を無造作に白いスカーフで覆った一人の初老の婦人が立っているのを見た。浅黄色の長いコートの裾が風に揺れ、深い緑色のロングスカートが垣間見えた。その婦人が横田加絵教授であることを僕はその時全く知らなかった。
僕は何だか知らないけど、すごくうっとりとその光景を眺めていただけだった。
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